#01 WS2についてちょっと考えてみる。

(最近、文化人類学[1]の講義を受講しているため、その影響がもろに出ています。)

 

初めてのブログの内容はWS2について書こうと思う。

(WS(ワークショップ)とはAPUにある1回生用の講義です。1と2があり、1はアカデミックライティング入門、2は異文化コミュニケーション入門だと思ってもらうのがわかりやすいと思います。)

 

さてさて、では本題に。

APUが示す、WS2のねらいと、到達目標は以下の通りだ。

 

授業のねらい

文化的背景の異なる人同士が協同で作業を行うのはAPUにおいては日常的なことであり、今日のグローバル社会においても当たり前のこととなっている。本科目では、そうした場面で必要となる基本的なスキルや態度を1回生が身に着けることを目指す。

 

到達目標

1 異文化コミュニケーション

 1.1  自文化を中心としたものの見方から抜け出し、文化的背景の異なる人々の視点から物事を見、感じ取ることができる。

 1.2 コミュニケーションのとり方は文化によって異なることを理解し、そうした相違を乗り越えて文化的背景の異なる人々と意思疎通ができる。

 1.3 異なる文化に対して好奇心を持ち、文化的背景の異なる人々に対しても心を開くことができる。

 1.4 言語の異なる人々と何とかして意思疎通を図ろうとする積極的な姿勢を身に着ける。

2 チームワーク

 2.1 グループの一員としてグループ活動に積極的に貢献することができる。 

 2.2 ほかのグループメンバーと信頼関係を構築し、グループの建設的な雰囲気づくりに貢献することができる。

3 問題解決

 3.1 問題となる物事を見つけることができる。

 3.2 問題の原因を複眼的、論理的に分析し、表現することができる。

 3.3 問題の解決に必要な情報を収集・分析・整理し、問題の解決に取り組むことができる。

 

さて、これらのことについて、少し考えていきたいと思う。特に考えていきたいのは1の異文化コミュニケーションと、3の問題解決についてである。

 

1.1を見てみると、その内容から自文化を中心としたものの見方、つまりエスノセントリズム(自文化中心主義)からの脱却と、文化相対主義[2]の考えの習得ということがうかがえる。では、なぜここが気になるかというと、「文化的背景の異なる人々の視点から物事を見、感じ取ることができる」というのが、どうもしっくりこないのだ。文化人類学においては他者を理解することはできない(しかし、どうにかして理解しようとする)、というのが大前提になっているため、ましてや、文化的背景の異なる人びとの視点に立つことなどできないのではないか、と考えることができる。人々には、それぞれ媒体(ボアズはこれを「文化メガネ」と称した)が備わっているため、いくら、相手側の立場に立とうとも、自らの媒体を通してしか見ることができない。そして、この媒体とは不可視であるため、そもそも自分がどのような媒体を持っているかも認識できないのである。 

 

このような前提があるのに「文化的背景の異なる人々の視点から物事を見、感じ取ることができる」なんて言ってしまっているのはどうかと思う。

そもそも、もし仮に「他者理解」を行うのであれば、参与観察が必要なんじゃないですかね。

文化人類学について、もっと知りたい人は、来年の清家先生の文化人類学の講義を受講してください。

 

次に、3の問題解決についてだ。3.2に「論理的」とある。・・・「論理的」?どこがだ?というのが正直な感想。論理的というからには科学的なものの見方が必要になってくる。しかしWS2で出てくるのは「チームワーク」や「積極性」などといった、曖昧なものばかり。別に、それらが悪いといっているわけではない。僕が言いたいのはこういったものはあくまで精神論であり、物事を科学的に見る際の根拠とはなりえない、ということである。そうすると、3.3にある情報の収集・分析・整理とは少し離れてしまうのではないだろうか。

 

とまぁ、WS2の理念に対する突っ込みはこのくらいにしておいて、次は内容についても少し触れたいと思う。

 

WS2のメインの内容はセッションの企画と実施。そのセッションの目的は「充実したAPUライフ」を送るために必要な特定の能力の獲得あるいは向上である。この目的自体は非常に良いものだと思う。せっかく大学に来たのだから4年間を無駄に過ごしたくない、というのは多くの人が思っていることだろうし、僕もそう思う。しかし、「充実したAPUライフ」を送るために必要な特定の能力というのが、これまた引っかかる。APUが提示する能力は以下の8つ。

 

1.自己発見 2.積極性・挑戦意欲 3.柔軟性・適応性 4.共感 5.チームワーク 6.創造性・革新性 7.感謝心 8.多様性理解

 

ん?なんじゃこりゃ。確かに、授業だから数を制限しなければ収集がつかないっていうのもなんとなく理解できるけれども、この、意識高い系(笑)みたいなやつしか無いのはなんで?8に多様性理解ってあるけど、この8つに制限している時点で多様性も糞もないよね。到達目標1.1にあった、自文化を中心としたものの見方からの脱却はどうした?そもそも、この英語をそのまま訳した感じのものを、そのまま使ってるのがすごいFラン大学っぷりを発揮してる。

 

WS1もそうだったけど、APUのこういうところをどうにかしていかないといけないと思う。

こんなものはそこら辺の高校でもやってるところいっぱいあると思うよ?こんなものを「学び」だと主張されたらたまったものじゃない。

 

ここまで、さんざんAPUに対してものを言ってきたけど、僕たち学生側もいろいろ考えなければならない点はある。

 

春セメスターの期末試験の時、それは起こった。その講義では小テストと期末テストで成績評価がつけられたのだが、学生の5割くらいが期末テストのテスト範囲を把握していなかった(もちろん教授はしっかり言っていた)。教科書とレジュメがそれぞれあったのだが、小テストは教科書から出題、期末テストはレジュメから出題、っていう形だったのに、教室で待機している学生の半分は、範囲外である教科書を一生懸命読んでいた。もちろんテストのための勉強というのは、学びの姿勢として、ちょっとなぁと思う(友人も先日FBに書き込んでいた)。しかし、テストすら真剣に向き合えていないという現実に驚愕した。

 

大学、学生、それぞれが学びについて考えていかないと大学としての機能を失っていき、挙句の果てになくなる、というのもあり得ると思う。新しい試みという名の話題性だけでではいつかすたれてしまう。自分の母校がなくなるなんていうのはもちろん嫌だし、悲しい。

 

大学での学びで、何をすべきなのか、僕自身もこの4年間で見つけていきたいと思う。

 

参考文献

清家久美(2015)『文化人類学』(レジュメのため書籍化されていません)

 

[1] 文化人類学とは「他者(異文化)理解」をする学問である。その方法論は、参与観察(フィールドワーク)をし、質的調査をおこない、民族詩を書くこと(清家, 2015)。

[2] ボアズ(米:1883-1911)によって提唱された、文化人類学の基本となる考え方。自文化を相対化し、他者理解を行う。