#03 思想の波間で

みなさま、お久しぶりです。僕です。

(え、待ってない?うん。知ってた。)

 

ブログの名前を変えてみました。まぁ、特にこだわりとかはなかったので。ニーチェの言葉を借りて、またアップグレードという意味も込めて。

 

毎年、1Qのクオブレに文章を書くというのが自分の中の決まり事になっている(うそ、今決めた。まぁ、去年も一昨年も書いたから今年も書くか、というそんな軽いノリ)ので、今年も書こうかな!

 

まずは、毎年恒例のアカキャンの振り返りから。

今年はリーダーズの一人として、そして代表としてアカキャンにかかわらせていただきました。テーマは「ルソーの思想理解」に設定していたのですが、受講生ががんばってくれたので、少々乱暴だったかもしれませんが「ルソーの一般意志思想の有用性に関する一試論」というタイトルで論文を書いてもらいました。考察の部分の文献を成果発表会の3日前に渡すという暴挙を行ったのに、よく頑張ってくれました。

リーダーズをやってみて、なんでこんなにつらいものが毎年開催されているのか改めてわかりました。なんといっても楽しいんですよ、アカキャンって。

ゼミに入ってから本格的に研究を始めてみて、研究のつらさを実感しました。夜な夜な一人で発表用のレジュメを作成しているときがなんとつらいものか。研究自体は楽しいんですが、やはりつらいんですよね。。。

今回自分の研究テーマである「ルソー」を受講生のみんなと一緒に考えていったわけでが、まぁ楽しい。とっても。みんなで勉強するって本当に楽しい。受講生たちが質問してくれることで自分の見落としていた箇所や、疑問に思っていた箇所がどんどんクリアになっていき、自分の課題が明確になっていきました。

 

と、ここまで書いて、カンファレンスのアブストラクトに追われてしまい、毎日研究室にこもっていたので、ここから再開。

 いやぁ、もう最近勉強するのが本当に楽しい。最近は、自分の研究に直結しないものも読み始めていて、今は東浩紀の『存在論的、郵便的』に手を出してます(他にも千葉雅也の『勉強の哲学』とか読んだので、時間があれば感想でも書こうかな)。哲学難しすぎて頭が沸騰しそうだけど、わからないことが多くても「おもしろい!」って思えるのはいいことだなぁと思います(もちろんわかったほうがもっと面白いんだけど)。この面白さが、もやもやが自分の研究への原動力となっているのでこれからも大切にしていきたいと思います。

 

ところで、最近東浩紀の『一般意志2.0』(本ブログのタイトル変更もここから着想を得た)を読んだのだが、色々思ったことがあったので、書いておこうと思う。

東はルソーの一般意志をデータベースとして可視化することで、その有用性を見出そうとする(一般意志をビッグデータとして扱うと解釈するとわかりやすと思う)。我々が普段ネット上にばらまいているツイートやグーグル検索、ニコ動のコメントをフロイトの無意識の議論に重ね、現代社会において無意識が可視化されたとする。それこそがアップデートされた一般意志、一般意志2.0だ。この一般意志2.0から、東は政府2.0や民主主義2.0、無意識民主主義などさまざまなことを構想していく。

また、ハーバーマスアーレントの熟議を重視する民主主義の形態を社会の複雑性から批判していく議論も面白かった。

 

ここまでの議論は思想的な部分も緻密に構想されており、非常に面白かった。ただ、第三部から、議論が少々荒っぽくなっていく。終盤では、いかにして実践していくのかという議論を展開していくのだが、その根拠づけとしてローティやノージックの議論を引っ張てくる。この根拠づけが少々強引でそれまでの緻密さを台無しにしてしまっているなぁというのが正直な感想だった。まぁ『動物化するポストモダン』を読んでないので、ここら辺の議論はまだまだ考える余地がありそうだが。

 

 しかしながら、自身の研究のヒントにもなりそうだし、「夢」を語ることで、未来社会を構想していくのも悪くないと思わされるものだった。

 

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さて、別府も先日梅雨入りした。これから「天空」も毎日のように濃霧に包まれることだろう。

僕にとっては過ごしづらい季節である。いつも鞄に大量の本を詰め込んでるから、その本たちを湿気にさらしたくない。いくら気を付けても否応なく曲がっていくけれど笑(特にソフトカバー)

これからまた忙しくなる。調研のことも考えなきゃいけない、カンファレンス(ピュアさん、先生、僕のつたないアブストラクト見ていただいてありがとうございました。なぁに、次は余裕ですよガハハ!)やゼミ大、そして来るべき卒論のために自分の研究も進めなきゃいけない。進路のことも本格的に考えなきゃいけない。

まぁ、それでも一つ一つやっていくしかない。それでは、今回はこれで筆を置こうと思います。

 

2017年6月11日 今年もMAXコーヒーを飲みながら。

 

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研究室から

#02 『映画 聲の形』

お久しぶりです。僕です。

久々の更新。1年たってないからセーフ(そんなことない)。

 

今回は映画のことについて書こうと思っています。

普段僕は作品に関する意見とか、感想とかは口頭でも発信しない性質なのですが、今回観た『映画 聲の形』はなかなかに面白かったので書こうと思います。

※ネタバレを含みます。以降は各自の判断でお願いします。

 

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まずはじめに、客層について。

同時期に上映していた『君の名は。』の影響もあったのか、アニメーションも市民権を得てきたようで、割と多くの観客がいたように思います。あと、女性が多かったのも印象的ですね。

 

次に、キャラクターデザインなどなどについて。

キャラデザ、作画ともに最高のものだったと思います。さすが京アニといったところでしょうか。音響監督も鶴岡さん(まどマギとか、物語シリーズとかを担当している人)で、これも文句なしといったところです。

 

展開について。

原作コミック7巻分を129分という限られた時間の中におさめたものなので、スピーディーな展開も少なからずありました。

また、文化祭の映画製作が丸々カットというのはやはり物足りなさを感じました。

なんなら、TVアニメで1クールやっても良かったかも。

 

ここからは、印象に残ったシーン、カットなどを脈略無く、書いていくので読みにくいかもしれませんが、ご勘弁を。

 

石田将也の心情を表した背景。

将也は過去の経験から人とのかかわりを避けていますが、それを如実に表すかのような雲の描写がやはり印象的でした。監督の山田尚子さんも公開直前特番で触れていますが、この作品、極端に雲がありません。周囲を見ないがために外からの情報を得ようとしない将也の心情をよく表していると思いました。

 

佐原みよこの靴の描写。

ここは僕が一番感動したカットです。上映中に内心で(「やってくれたな!!山田監督!」)と叫んだほどです。

終盤、将也の入院中に硝子が佐原のもとに赴くシーンがるのですが、そこでの会話中に佐原の足元が一瞬アップで映されるカットがあります。普段ヒールの高いブーツを履いている佐原ですが、このシーンではローファーを履いています。

原作では植野や硝子との喧嘩に巻き込まれ、ヒールが折れてしまったことから、ローファーを履くようになったのですが、映画では、喧嘩に巻き込まれていないどころか、そのシーンそのものに登場していないので、ヒールが折れることはあり得ません。ということは佐原は自ら靴を履き替えたということになります。

ここからは僕の勝手な憶測ですが、佐原は遊園地に遊びに行ったシーンで、自身の成長について触れられる描写があります。このシーンは映画でもしっかりと描かれていますが、後の橋でのシーンで将也にそれを否定されてしまいます。佐原は作品の中でも良心の一人でもあり、僕個人としても結構成長したキャラ(原作で植野とうまくやっていることからも読み取れると思います)だと思っています。それでも、これまで背伸びしていた佐原が「等身大」の佐原みよことして表現されていたように感じました。

 

演出の柔和化について。

『映画 聲の形』は原作と比べてだいぶ柔和に描かれています。

それがよくわかるのは、他のキャラの描き方だと思います。

永束の見栄っ張りな性格はほぼ描かれず、川井のナルシズムもだいぶ落ち着いていますし、竹内のヒールっぷりも少なく、真柴のいじめや、心理描写もハブられています。映画という媒体にする以上、その時間的制約では、将也と硝子、結弦にスポットをあてるほかなく、いろんな関係各所との兼ね合いなどもあるでしょうから、仕方のないことなのかもしれません。

詳しくはぜひ原作を読んでみて下さい。非常に胸糞悪くなります。特に川井が出てくるシーン。最悪の気分になります。

 

というわけで、今回は 『映画 聲の形』について執筆してきました。

大小はあれど、誰もが持っているであろう過去とどう向き合うのか、人とどう接するのか。『聲の形』は心理描写が少ないとよく耳にしますが、実際の生活においてなぜその人がそのような心理状態になったのかなんてものはわかりません。僕としては、そのことを非常によく表している作品だと思っています。

僕は講談社の回し者ではありませんが、『聲の形』はぜひ原作コミックスも読んでいただきたいものです。

 

ではでは、今回はこのへんで筆をおきたいと思います。

#01 WS2についてちょっと考えてみる。

(最近、文化人類学[1]の講義を受講しているため、その影響がもろに出ています。)

 

初めてのブログの内容はWS2について書こうと思う。

(WS(ワークショップ)とはAPUにある1回生用の講義です。1と2があり、1はアカデミックライティング入門、2は異文化コミュニケーション入門だと思ってもらうのがわかりやすいと思います。)

 

さてさて、では本題に。

APUが示す、WS2のねらいと、到達目標は以下の通りだ。

 

授業のねらい

文化的背景の異なる人同士が協同で作業を行うのはAPUにおいては日常的なことであり、今日のグローバル社会においても当たり前のこととなっている。本科目では、そうした場面で必要となる基本的なスキルや態度を1回生が身に着けることを目指す。

 

到達目標

1 異文化コミュニケーション

 1.1  自文化を中心としたものの見方から抜け出し、文化的背景の異なる人々の視点から物事を見、感じ取ることができる。

 1.2 コミュニケーションのとり方は文化によって異なることを理解し、そうした相違を乗り越えて文化的背景の異なる人々と意思疎通ができる。

 1.3 異なる文化に対して好奇心を持ち、文化的背景の異なる人々に対しても心を開くことができる。

 1.4 言語の異なる人々と何とかして意思疎通を図ろうとする積極的な姿勢を身に着ける。

2 チームワーク

 2.1 グループの一員としてグループ活動に積極的に貢献することができる。 

 2.2 ほかのグループメンバーと信頼関係を構築し、グループの建設的な雰囲気づくりに貢献することができる。

3 問題解決

 3.1 問題となる物事を見つけることができる。

 3.2 問題の原因を複眼的、論理的に分析し、表現することができる。

 3.3 問題の解決に必要な情報を収集・分析・整理し、問題の解決に取り組むことができる。

 

さて、これらのことについて、少し考えていきたいと思う。特に考えていきたいのは1の異文化コミュニケーションと、3の問題解決についてである。

 

1.1を見てみると、その内容から自文化を中心としたものの見方、つまりエスノセントリズム(自文化中心主義)からの脱却と、文化相対主義[2]の考えの習得ということがうかがえる。では、なぜここが気になるかというと、「文化的背景の異なる人々の視点から物事を見、感じ取ることができる」というのが、どうもしっくりこないのだ。文化人類学においては他者を理解することはできない(しかし、どうにかして理解しようとする)、というのが大前提になっているため、ましてや、文化的背景の異なる人びとの視点に立つことなどできないのではないか、と考えることができる。人々には、それぞれ媒体(ボアズはこれを「文化メガネ」と称した)が備わっているため、いくら、相手側の立場に立とうとも、自らの媒体を通してしか見ることができない。そして、この媒体とは不可視であるため、そもそも自分がどのような媒体を持っているかも認識できないのである。 

 

このような前提があるのに「文化的背景の異なる人々の視点から物事を見、感じ取ることができる」なんて言ってしまっているのはどうかと思う。

そもそも、もし仮に「他者理解」を行うのであれば、参与観察が必要なんじゃないですかね。

文化人類学について、もっと知りたい人は、来年の清家先生の文化人類学の講義を受講してください。

 

次に、3の問題解決についてだ。3.2に「論理的」とある。・・・「論理的」?どこがだ?というのが正直な感想。論理的というからには科学的なものの見方が必要になってくる。しかしWS2で出てくるのは「チームワーク」や「積極性」などといった、曖昧なものばかり。別に、それらが悪いといっているわけではない。僕が言いたいのはこういったものはあくまで精神論であり、物事を科学的に見る際の根拠とはなりえない、ということである。そうすると、3.3にある情報の収集・分析・整理とは少し離れてしまうのではないだろうか。

 

とまぁ、WS2の理念に対する突っ込みはこのくらいにしておいて、次は内容についても少し触れたいと思う。

 

WS2のメインの内容はセッションの企画と実施。そのセッションの目的は「充実したAPUライフ」を送るために必要な特定の能力の獲得あるいは向上である。この目的自体は非常に良いものだと思う。せっかく大学に来たのだから4年間を無駄に過ごしたくない、というのは多くの人が思っていることだろうし、僕もそう思う。しかし、「充実したAPUライフ」を送るために必要な特定の能力というのが、これまた引っかかる。APUが提示する能力は以下の8つ。

 

1.自己発見 2.積極性・挑戦意欲 3.柔軟性・適応性 4.共感 5.チームワーク 6.創造性・革新性 7.感謝心 8.多様性理解

 

ん?なんじゃこりゃ。確かに、授業だから数を制限しなければ収集がつかないっていうのもなんとなく理解できるけれども、この、意識高い系(笑)みたいなやつしか無いのはなんで?8に多様性理解ってあるけど、この8つに制限している時点で多様性も糞もないよね。到達目標1.1にあった、自文化を中心としたものの見方からの脱却はどうした?そもそも、この英語をそのまま訳した感じのものを、そのまま使ってるのがすごいFラン大学っぷりを発揮してる。

 

WS1もそうだったけど、APUのこういうところをどうにかしていかないといけないと思う。

こんなものはそこら辺の高校でもやってるところいっぱいあると思うよ?こんなものを「学び」だと主張されたらたまったものじゃない。

 

ここまで、さんざんAPUに対してものを言ってきたけど、僕たち学生側もいろいろ考えなければならない点はある。

 

春セメスターの期末試験の時、それは起こった。その講義では小テストと期末テストで成績評価がつけられたのだが、学生の5割くらいが期末テストのテスト範囲を把握していなかった(もちろん教授はしっかり言っていた)。教科書とレジュメがそれぞれあったのだが、小テストは教科書から出題、期末テストはレジュメから出題、っていう形だったのに、教室で待機している学生の半分は、範囲外である教科書を一生懸命読んでいた。もちろんテストのための勉強というのは、学びの姿勢として、ちょっとなぁと思う(友人も先日FBに書き込んでいた)。しかし、テストすら真剣に向き合えていないという現実に驚愕した。

 

大学、学生、それぞれが学びについて考えていかないと大学としての機能を失っていき、挙句の果てになくなる、というのもあり得ると思う。新しい試みという名の話題性だけでではいつかすたれてしまう。自分の母校がなくなるなんていうのはもちろん嫌だし、悲しい。

 

大学での学びで、何をすべきなのか、僕自身もこの4年間で見つけていきたいと思う。

 

参考文献

清家久美(2015)『文化人類学』(レジュメのため書籍化されていません)

 

[1] 文化人類学とは「他者(異文化)理解」をする学問である。その方法論は、参与観察(フィールドワーク)をし、質的調査をおこない、民族詩を書くこと(清家, 2015)。

[2] ボアズ(米:1883-1911)によって提唱された、文化人類学の基本となる考え方。自文化を相対化し、他者理解を行う。

#00 ブログ、はじめます。

ブログをはじめました。

自己紹介とか恥ずかしいので、「僕」で通していこうと思います(そもそも、知り合いしか読まないと思う。てか、知り合いでも読んでくれるかわからん)。

タイトルは、なんか思いついたことをつけただけなので、中身との関係性は一切ありません。ごはんに関する記事とか、一生書かないと思う。

 

ブログをはじめようと思った理由は3つ。

1.知り合いとか、友人とかが何人かしていたのでしたくなった。

2.ちょくちょく、facebookで長文書いてるけど、そういったものと区別したいな、と思ったから。つまり、自分の個人的な考えをSNSという空間に投下できるほど勇気がなかったということ。

3.文章を組み立てる練習。

 

以上の3つがブログ開設に至った経緯です。

 

さて、さっそく次の記事からは本題に入っていきたいと思っています。

これから、どうぞよろしくお願いします。